陰翳の煌き

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“万物 光輝を生ず”

夏休みも もう終わりなので 子供の提出する作品を一緒に選ぶ。
久しぶりの条副なので “万”という字が上手く書けず 苦労していたが 最後に納得いくよう仕上がり 本人はご機嫌だった。

“万物 光輝を生ず”
悟りの目を開けば それは単なる錯覚でなく 
真実・・山川草木、森羅万象ことごとくが仏の光明世界にあって輝いている。
 
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自分は悟ったわけではないが 昔もう死ぬかもしれないと思っていた数日間 すべてのものが光輝いて見えた。

屋根の甍 道端の石ころ 川の流れに身を委ねている藻 自転車に乗って通り過ぎるおじいさん・・
すべてが輝いて見えた。

それは実際光っているというよりも 瞬間瞬間の表情が変わるから輝いて感じるものだった。

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by ukishimakan | 2008-08-31 08:42 | | Trackback | Comments(0)

お手入れ

b0152027_21353888.jpg今日の水前寺での稽古は ロシア公演の件で熊日新聞社から取材があった。
虚鐸のこと 今までの海外公演のことなど詳しく取材して行かれた。
肥後銀行広報の女性の方も同時に取材に来られ 楽しく会話が弾むうち取材は終わった。


取材の後 虚流先生は手に椿油をつけて虚鐸の手入れを…。 

左より 大乗 大自在 霊岩洞 蒼露 晩年製管の竹 と名器が並ぶ。
ロシアには ここには並んでないが 「去来 kyorai 」 という虚鐸を持参される。

ラフマニノフホールでの公演は 西村虚流先生を中心に日本から3名、ドイツ・デンマーク・ロシアから各1名の計6名で公演予定。
残念ながら 私は 今回は空港で見送りである。

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by ukishimakan | 2008-08-30 21:38 | 虚鐸 | Trackback | Comments(4)

虚鐸とは…

虚鐸伝記という古書によると…

中国の唐時代の奇僧・普化禅師が托鉢のときに使用した“鐸”という法器の音を模して 張伯という門人が竹の縦笛を作った。
そして 師が鐸を振った際の音「ボーン 」に続いて笛を「ブー 」と吹いて 師の後を追って歩いたことから その縦笛 即ち一音しか出せない 指孔のない縦笛のことを“虚鐸”と呼称したのである。

しかし いつの頃かその笛も絶え その名称も消えてしまった。

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現在“虚鐸“と呼ばれている縦笛は 西村虚空創作の竹の縦笛のことをいう。

これは 古来から虚無僧が伝えてきた本曲を 氏が「心を落ちつかせるには 上ずった高音より 低音こそ…」と 古い製管法の研究を重ね 作ったもので 秘伝ともいえるものである。

日本全国を演奏しながら虚無僧としてまわり 厳しい自然に戯れ 多くの人々との出会いのなかで磨かれ 生まれたものである。

それは彫刻家として また武道家としても 一流の感性と腕前とを持ち合わせていたからこそ 生み出されたものといえる。

虚鐸は 尺八によくみられる中継ぎという方法はとらず 竹本来の特性を活かしてつくられる。

寸法は尺八の54センチより長く だいたい2尺6寸(約78センチ)程を基本とし なかには三尺を越えるものもある。
長くなれば長いほど 低音になっていくのである。

演奏は尺八よりも息を中に吹き入れ 低音のゆっくりした瞑想的な曲となる。
 
最近は長い尺八を吹く人もいるが “虚鐸”は長い尺八か?というとそうではない。

笛の中の構造も孔の位置も 尺八とは微妙に違い 氏が意図した曲の方向性にあわせて製管しているため 氏本人が制作したものと その弟子の作った一部のみが“虚鐸”だといえる。


ところで西村虚空の縦笛を“虚鐸”と呼称するようになったきっかけは 1954年 東京「文化人の集い」(棟方志功・三角 寛…)という会に招かれ 有楽町・日本倶楽部での「西村虚空の竹を聞く夕べ」で「阿字観」という曲を吹いたときのことである。

「尺八とは全く似ても似つかない。長さも長く 音も違う・・。」

「何か縦笛本来の…というような名称をつけたらどうか?」と提案され 普化禅師のことなど話したところ その虚鐸こそ相応しいということになり それ以来 氏の作った竹の縦笛を“虚鐸”と呼ぶことになったのである。
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by ukishimakan | 2008-08-29 22:38 | 虚鐸 | Trackback | Comments(0)

夕刻

夏が終わり だんだん日が短くなっているのが分る

遠くから聞こえる音も 遠ざかりながら聞こえてくる

すべての音が 何かに吸収されかのように消えていく

引き潮のように 去っていく音
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昔 題名にひかれて 小説『山の音』というものを読んだことがある。

どんなストーリーだったか覚えてないが 音を感じる“けはい”のような印象は残っている。
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by ukishimakan | 2008-08-29 08:00 | | Trackback | Comments(0)

予想外…

今朝 ナラの樹のところに行くと あのクワガタの穴いっぱいに なんと!キノコが めきめきっと生えていた。

穴のはずだったところが 逆に盛り上がっていたことと 予想もしなかったキノコが 普段見ない方向から見えたので
一瞬それが何か分らず“ 白い色”が劇的に見えた。 たしか昨日はなかったような…
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予想もしないことが起きると 人間の視覚は 捉えた情報の一部が極端にクローズアップされる。


学生の頃 大きな古い家に住んでいた・・。

部屋のすぐ前の軒下には 大家さんの犬が飼ってあり 私によく懐いていた。
その犬は 小柄の白の雑種で 私が縁側に座ると いつも尻尾を振ってやって来て「よしよし」と撫でられていた。

ある日の明け方 私がまだ寝ているとき 何か物音がしたので うつらうつらしながら 布団から身を起こそうとしたところ 次の瞬間 どこから入ってきたのか その犬が 満面の笑顔で 私の顔の上に勢いよく 飛び込んできたのである!

私は あまりにも突然で 予想外で まだ眼も覚めていなかったので その小柄の犬が 馬が飛び乗ってきたかと間違うくらい大きく見え 大いにビックリしたことがある。

犬は紐が外れた開放感いっぱいで よほど嬉しかったのだろう。

人は誰でも 予想外のことが起きると ちょっとしたパニックになる。
その小さなパニックを視覚的に起こすことで 絵画の名品は生まれているのではないだろうか? 

“名品は幻を生む”… 幻を生むような作品は 創れないだろうか?
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by ukishimakan | 2008-08-28 08:31 | 自然 | Trackback | Comments(0)

狐は化かす…

昨日 蜂が飛んできて 塵取りが見つかったとき 昔話の『わらしべ長者』を思い出した。 

あの話は 実話ではなかっただろうか? そんな気がしてきた。

また昔話によくある 狐や狸が人を化かす話など ただの昔話と思われているけれども それも本当にあった話ではないだろうか?

狐が人を化かす時には 「尻尾を左右にそろりと振り、 人間が一瞬ふっと気が抜けた瞬間 魚を奪って逃げる。」そうである(釣り師から聞いた話)。

たぶん 狐は 鳩が磁力を感じるような場所 眼と眼の間から 電磁波に近いような何かを発し 人間の脳に 一瞬 影響を与えるとも考えられる。

コウモリが 超音波を出して蛾を見つけるのと同じように 狐や狸にも何かそんな力があったのではないか?

それが 自然環境や人間の暮らしに変化が訪れ そんな化かす場面も少なくなったのだろう。

そして その能力(文化)を狐や狸も受け継げなくなったのかもしれない。

私はホタルがを放つことさえ 不思議に思う。もしホタルが昔に絶滅していたら を放ちながら飛ぶ虫を 信じることは出来ただろうか?
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by ukishimakan | 2008-08-27 19:44 | 自然 | Trackback | Comments(2)

犬と蜂

昔むかし ある田舎の大きな家に“桃”と“栗”という2匹の犬がいました。

桃はお姉さんで責任感が強く いつも番犬として、立派に広い屋敷を守っていました。

それに比べ 弟の栗は いつも穴ばっかり掘って 朝から晩まで、モグラ捕りに夢中でした。

「今日は朝から天気がいいし 散歩日和だなぁ!」と 桃はうきうきした気分です。

しかし 飼い主はなかなか家から出てきません。

栗は相変わらず 鼻っ先に泥つけて穴を掘っています。

しばらくして 桃は立ち上がり「清々しい草の原っぱでしたかったのに…」と尻尾を上げて足を踏ん張りました。(続く)



今朝 犬に餌をやろうとしたら モクセイの根元に糞をしていた。

臭いので すぐそれを塵取りで集めて捨てようと その場で周りを見まわすが 塵取りは どこにも見当たらない。

どうしようか…?と考えていたら 近くに一匹の蜂がブンブン飛んできた。

スズメバチより小さいので無視していたところ 次の瞬間 なんと顔に向かって飛んできた!

黒い服を着ていたこともあって 慌てて一直線に別方向に10メートルほど走って逃げて 止まった。

…下を見たら そこに塵取りがあった!




学生の頃 柳生街道で 自然の中に蘭を植えているという犬連れの人と出会った。

その人が蘭の花の咲いている所を案内してあげるから この犬について行きなさい!と…

半信半疑で小柄の白い犬について行くと 草の茂った小道に入り 私達の歩く速度に合わせ 黙ってゆっくりと歩いて行く。

「ここには蛇がいるから 犬の歩いたあとを行くように!」と 後ろから声がかかる。

注意深く歩いて行くと暫くして たしか“オニノヤガラ”という蘭が咲いているのを見た。

観ているあいだ犬は立ち止まっていた。

花は美しいのか奇妙なのか 私はよく理解できなかったが その犬に案内してもらったことを思い出すと 今でも不思議な気持ちになる。

ちょうど 絵本の「きつねの窓」の主人公のように…。
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by ukishimakan | 2008-08-26 22:20 | 自然 | Trackback | Comments(0)

虚鐸の稽古

虚鐸の稽古に行った。
今は 稽古は水前寺の虚空先生の娘さんのお宅を利用させてもらっている。
先生が亡くなられてからも京町のお宅で稽古があっていたが 土地再開発の影響で 残念ながら今はもうその屋敷はない。

いつも中庭を通って 縁側からお邪魔していた。
縁側の古いガラス戸を開け 障子を開けると彫刻作品を背景に先生が座っておられた。
これだけの先生なのに 稽古に訪れる人は少なかった。
海外からの方が多いくらいだった。
とても勿体無いことだと思った。

そういえば いつだったか 先生の誕生日に ヨーロッパから電話が掛かってきて
「Happy birthday to you ~♪♪」の大合唱が電話の向こうで響いた。

下の写真は その縁側から見た中庭。
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稽古にお邪魔すると まず先生の自刻像と写真に線香をあげ 手を合わせる。
昨日は 先生の跡を継がれた息子さんの虚流先生と虚晧さんと私(虚瑛)の3人で虚空先生作曲のものを中心に吹いた。
私は行けないけれど 来月 ロシアのラフマニノフホールでの演奏が予定されている。 
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by ukishimakan | 2008-08-25 07:50 | 虚鐸 | Trackback | Comments(0)

鳩の言葉

一昨日 座敷で教室の準備をしていると 庭の樹にとまった山鳩が・・
「シューチュー シナサイッ シューチュー シナサイッ 」と ずっと鳴いている。

自分には「集中しなさい!」と聞こえたので いろいろと 思い巡らし どの事を言っているのかな?
などと 思い当たる事はないかと考えていた。
しかし そう考えているうちに 自分は忘れてしまい 鳩もいつの間にか何処かへ いなくなった。

そして昨日 玄関のギンモクセイにとまった山鳩が鳴き始めた。
前日と同じ鳩かどうかは判らないが 今度は「シューチュー シテーッ シューチュー シテーッ」と鳴いている。

自分には 「集中してー!」と聞こえ また暫く考えた。
それから 「そうだ!些細な事をしていても 他のことを気にせず ひとつの事に集中しよう!」 と自らに言い聞かせながら そのまま掃除を続けた。
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私が 鳥の鳴き声を 言葉として受け取るようになったのは 何年か前の春だった。
その頃 展覧会に向けて毎朝4時に起きて 仕事をしていた。
その時 庭にやって来たウグイスが 「リッパーナ ゴシュジン」と… 私には 本当にはっきり「立派ーなご主人!」と聞こえ 驚いた。

このように 自分に都合のいいようにしか捉えないけれども 予想外の言葉に聞こえることもあって なかなか楽しめる。
バリ島に行ったときには 密林の向こうから 「オカーサーン タスケテー!」 と 毎朝ニワトリの声が聞こえた。

このような言葉は 誰でもを聞いたことがあるのではないだろうか?
そのような言葉を集めたら 面白いものが出来そうだ。

そういえば 昔 『空耳アワー』 という番組が 深夜やっていた。
それは鳥の声ではなくヘビメタ系ロックの歌から聞こえる言葉だった。
大好きな番組だった。
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by ukishimakan | 2008-08-23 22:31 | 自然 | Trackback | Comments(2)

日本画とは?

今度の二年生の日本画の授業のことを考えている。
授業で 「日本画とは・・・」と いつも説明する度に はっきりとそれが規定できないことに もどかしさを感じる。

日本画の材料を使って描いたものが日本画か?というとそうでもない。アクリルや色鉛筆を併用して描いた日本画もあるし、逆に 日本画の材料で描いてあっても そうは呼べない作品もある。作品を扱う画商が これは日本画だといえば そうなったりもする。

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この作品は 下地を胡粉+丹でマチエールをつくった上に 金箔を貼り 墨や藍で描き 雫には 新体操のレオタード装飾に使うカットされたガラス粒を Gクリアーで貼り付けた。

「日本画とは?」という質問は 「日本人は?」という質問にも似ている。
他にまた 剣道では 初めての試合では “剣道”にはなってないし 柔道でも国際大会で「これは柔道ではない!」と言われる試合もよくある。そのとき どのような観点で そうで “ある” のか “ない” のか判断するのだろう。

それは そのものが生み出されるときの心持ちと その動きや形の必然性が 問題になっているように思う。それは 一種の美意識によるものだと思う。
ところで その一種の美意識とは どこから来るのか?
それは その歴史のなかで積み重ねられてきた感性からか・・・

描き手は 日本画だからといって 日本画風に仕立てる必要などない。だから描くとき「日本画とは…」と区別したり限定することもしない。ただ 結果的に自分の考える“理想像の日本画”に 結果的になればいいな と思う。

“心持ち”と“必然性”から生まれる作品。出発点となる“心持ち”が大切。“必然性”は 古典を学び 気づくこと 

最近 公募展を観に行くたびに 会場に飾られている作品が どれも画家自身の看板に見えてしようがない。 “心持ち”が 違うのだろうか。 だから日本画に見えない。

○日本画とは ひとつの絵画スタイル  日本的感性を軸に作られた絵画。 
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by ukishimakan | 2008-08-23 02:38 | 作品 | Trackback | Comments(4)