井寺古墳 Ⅱ
井寺古墳は、150年前の地震で発見されるまで 1300年の時代を越えて人知れず護られてきた。
しかし 発見後は盗掘にあってしまった。
次のような言い伝えがある。
「昔 井寺古墳にあった銅鏡を ある村人が持ち帰り わが娘の嫁入りのときの持参物にしようとしたら その娘の口が横に曲がってしまった。おどろいた親は すぐ元に返したところ ただちに治った」と・・。
残念ながら その銅鏡はもう今はなく その言い伝えだけが残った。
ところが 昨年 狩野派の末裔の狩野さんから私の方に電話があった。
「家に代々伝わる粉本を見ていたら 偶然 狩野養長の描いた銅鏡の図が出てきた。
井寺古墳らしい」…と。
早速 コピーをとって持ってきてもらった。
よく見ると 薄い和紙を直接銅鏡にのせ、そのまま上から木炭のようなものでこすって形をとり 墨線で描き起こしてある。
銅鏡はあったといわれてきたが 言い伝えしかなく確証などなかった。
しかし確かに銅鏡は存在したのである。
これは大発見だ!と興奮を抑えきれず すぐ町の教育委員会に連絡し資料を渡す。
いつ新聞に載るかドキドキし待っていたが 調べてはくれたみたいだが 結局そのままだった。
狩野養長(おさなが)(1814~1942)年は 細川藩のお抱え絵師だった。
この古墳が発見された安政4 (1857)年の地震の折には 藩の命令でここまで調査に来たに違いない。
この辺りは鯰郷の東端 井寺地区 小字名の「矢トウノ丸」というのは 現在 弥太郎丸という。

こちらは博物館で探した国産最大級の銅鏡である。
いろんなデザインの銅鏡があるが これとかなり共通する部分が多い。
同じところで作られたのかもしれない。
しかし 発見後は盗掘にあってしまった。
次のような言い伝えがある。
「昔 井寺古墳にあった銅鏡を ある村人が持ち帰り わが娘の嫁入りのときの持参物にしようとしたら その娘の口が横に曲がってしまった。おどろいた親は すぐ元に返したところ ただちに治った」と・・。
残念ながら その銅鏡はもう今はなく その言い伝えだけが残った。

ところが 昨年 狩野派の末裔の狩野さんから私の方に電話があった。
「家に代々伝わる粉本を見ていたら 偶然 狩野養長の描いた銅鏡の図が出てきた。
井寺古墳らしい」…と。
早速 コピーをとって持ってきてもらった。
よく見ると 薄い和紙を直接銅鏡にのせ、そのまま上から木炭のようなものでこすって形をとり 墨線で描き起こしてある。
銅鏡はあったといわれてきたが 言い伝えしかなく確証などなかった。
しかし確かに銅鏡は存在したのである。
これは大発見だ!と興奮を抑えきれず すぐ町の教育委員会に連絡し資料を渡す。
いつ新聞に載るかドキドキし待っていたが 調べてはくれたみたいだが 結局そのままだった。
狩野養長(おさなが)(1814~1942)年は 細川藩のお抱え絵師だった。
この古墳が発見された安政4 (1857)年の地震の折には 藩の命令でここまで調査に来たに違いない。
この辺りは鯰郷の東端 井寺地区 小字名の「矢トウノ丸」というのは 現在 弥太郎丸という。

いろんなデザインの銅鏡があるが これとかなり共通する部分が多い。
同じところで作られたのかもしれない。
by ukishimakan
| 2008-11-21 23:51
| 文化財